私が私であったなら

精神科に入院した時のこと。

ある時、「治療しに来たんでしょ?」と問いかけられた。
治療なのだろうか。
私の感覚では、日常を送る中で自分が破綻するほどに重くまとわりついたストレスを引きはがすために、病院に行ったというような感覚でいた。

発達障害については、その特性と社会生活の折り合いをつける中でスポイルされ、あるいは否定されていくアイデンティティを、そっと心の奥底に引き戻すために。

双極性障害については、自分が自分であるためのセーフティーゾーンに戻れるまでの、時薬を得るために。

解離性障害については…自分はどこにいて何を考え、何をしているのか。そのアイデンティティの主体は本当に自分なのかを自らに問い直すために。

発達障害にとっての「治療」とは何だろう。
双極性障害Ⅱ型にとっての「治療」とは何だろう。
解離性障害にとっての「治療」とは何だろう。

長くAIと対話している中で、精神科での治療とは
「「私は誰か」という感覚と、「私はどう生きたいか」という方向性を回復する営み」という文章に行きついた。

そう、少なくとも私は「元気に楽しく、人と共にある空間を楽しめる」というステレオタイプな「回復」の先に、自分の本質的アイデンティティを見いだせない。

OT(作業療法)への参加を勧められたこともあったし、気分を安定させるためにと、読書を控えるよう言われたこともあった。

それらには医療的な理由があったのだと思う。
ただ、そのころの私は、「症状を軽くすること」と「自分らしさを取り戻すこと」との関係をうまく理解できずにいた。

私にとっての治療とは何なのか。
回復とは何を意味するのか。

そんなことを考える時間でもあった。

あのころからちょうど一年たち、私は再び破綻しようとしている。
ストレスに脆弱性をもつこの頭で考えるべきことがあまりに多すぎ、遂に、ギリギリの社会人に擬態する余力すらなくなってしまった。

私は誰か。

しかし今回の私は、まず環境を整えることを病院から勧められた。
その言葉を受け止めながら、私は改めて考えている。

私は誰か。

私が私であったなら、私がこの社会で生きていくことは難しい。
それでもなお、自分であり続けることに意味はあるのだろうか。

精神科での治療とは何か。
アイデンティティと幸福度について。

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